香りでご機嫌♩雪音のプロフィール

基本情報

  • 山本雪音 (同世代にも雪音ちゃんと呼ばれることが多いです♡)
  • 1998年12月3日(25歳)
  • 自閉症スペクトラムの夫27歳と出会って7年
  • 息子3歳(2021年2月生まれ)
  • 岐阜に住む田舎者

〈仕事〉

  • doTERRA Wellness Adovocate
  • 心のコンサルタントYoutube
  • Youtubeを0から始め総再生24.2万回
  • (元)発達障害の子専門家庭教師
  • (元)発達障害自立支援施設勤務

〈コミュニティについて〉

ご機嫌な人を日本に増やす♡

  • doTERRAチームメンバー限定コミュニティ
  • 関東から沖縄まで広がるコミュニティ

発達障害?doTERRAを伝えている?家庭教師?雪音ちゃんってどんな人なの〜?

下記を読んでいただければ、まだ25年だけど変な人生晒しています♡笑

子ども時代:あらゆる疑問を持つ

幼い記憶には、自分の父の声も顔も、何一つ記憶にありません。

母はいつも一生懸命働いていました。私が幼い頃、母はお店を経営しており、預けられることも多かったので母とのことをあまり覚えていません。

5つ上の兄と常に一緒にいました。優しい兄です。

私が4歳になった頃、とある男性が現れました。この男性が私たちの育ての父親となります。見た目はチンピラでしたが(笑)優しい人でした。

それから2年後、弟が生まれました。なんという可愛さ!愛らしさ!溺愛の極みでした。

その後さらにポンポンと弟が生まれ、5人兄弟になりました。5人兄弟なんて珍しくて嬉しくて、自慢でした。

私たち兄弟は、兄、私、弟3人、それぞれ父親が違います。私は当時、再婚とか血の繋がりとか、何も理解していませんでしたが、それくらい、父は私のことを大切に優しく育ててくれたと思います。

私と兄は小さい頃から、協力して家事をするのが当たり前でした。洗濯も掃除も料理もできて当然なくらい、完璧でした。

そのため母に頼まれることが多く、大量の洗濯を兄と2人でやり、洗い物や炊飯は兄、弟のことは私。休日は私一人で弟3人と過ごしながら家事を完璧にやる。そんな毎日でした。

私にとってはこれが日常であり常識。他所の家庭と比べる術もありません。当たり前すぎて、友達と遊べないことにも不満はありませんでした。幸せだといつも思っていたからです。

今思えば、いつも幸せだと思っていたことが、生き抜く力に繋がったと感じています

そしてそんな日常が大きく変わったのは、両親の離婚でした。

家の中の常識が、母だけになってしまった。

母は虐待されて育った人。人が集まるような明るさがありますが、実際にはすごくネガティブで、自信がなく孤独で、愛を探し求めている…私の目にはそんなふうにうつっていました。

プラスかなり不健康な人でした。大病を患いったのをきっかけに、薬漬け。年々病名は増え薬も増え、一向に健康にならない母。

薬ってなんだろう?健康ってなんだろう?漠然と疑問を抱いたきっかけでした

おかげで情緒が不安定で、感情的に何でも言います。

「可愛くない」「お前は頭がいいだけ」「育ててやってるのに」「親子の縁を切らせていただきます」「生むんじゃなかった」「幻滅した」「感謝がない」「金返せ金払え」

どれだけ言われてきたか分かりません。それまでは父という常識も存在していて、守られる部分も多かったのです。

同じく守ってくれていた兄も、離婚する少し前に結婚して家を出ていました。

すべての攻撃が直接ぶつけられます。

まだ高校生の私は家を出られません。父のように離婚して縁を切ることも親子にはできません。

そんな絶望の極みな毎日でも、可愛い弟がいました。6、8、9つと離れているため、何も知らない弟たちの純粋無垢な笑顔や言葉にどれだけ救われたかわかりません。

家事の負担も驚くほど増え、学校→洗濯→弟のご飯→掃除→バイト→帰宅後洗い物→米を炊く→寝る…高校生活でした。

そんな毎日でも私がひねくれなかったのには理由があります。

大事にしてくれる人がたくさんいたからです。

ご飯がもらえない私に、コンビニの廃棄をくれるおばちゃん
第2の家だから!と迎え入れてくれる友達のお母さん
カラオケ行こ!って誘ってくれる友達
こそっとお菓子をくれる先生
雪音の好きなプリン買ってきたぞ!ってくれる塾の先生
気にかけて電話をかけてくれる兄と兄嫁
絶対に電話をかけ直してくれる父

たくさん否定されてきたけれど、肯定してくれる人がたくさんいました。

手をあげられるのも幼い頃から当たり前でしたが、友達との会話でそれは違うと気づきました。

高校のとき仲良しだった3人には特に救われました。

100~200通と止まらない暴言LINEに耐えられず、家出したこともあります。そのとき原付で迎えにきた友達が、恋話すっか〜と深夜まで喋り続け、お母さんは何も言わずに入れてくれて、翌日お弁当を持たせてくれたんです。美味しくて幸せで温かくて。

まあ、家出したんでその後ボコボコにされたんですけど(笑)

私は自分のことを可哀想だと思ったことは一度もありません。それくらい周りに恵まれていました。本当にありがとうございます。

ただ、いろんな違いを自覚しながらも、子どもの私には何かを変える力も気力もなかったのです。クールな子どもでした。

そんな子ども時代でも、常に前を向いていられたのは夢があったからです。

高校生:夢のためにバイトを頑張る

どうしようもないことに泣いたり落ち込んだり反論することが時間の無駄。だったらアイス食べて美味しいって感じてる方が100億倍幸せで価値がある。

自分の足で立ち、ちゃんと自立しよう

どうしようもないことにこだわらず、現実をみようと決めます。

夢のためには大学に行く必要があり、そのように人生を歩んできました。バイトを始めてからも学年トップは維持。

なんとなく、卒業までに100万貯めようと決めます。

スマホ代(当時7,000円くらい)や、教材費なども払いながら、無事に100万貯めました!

小さい頃、「誕生日は〇〇がほしい!」とお願いしていました。

しかし必ず「買ってやったのに」「~~円したんだぞ」とどこかのタイミングで言われるので、お願いすることをしなくなりました。

だから、自分で働いたお金で、自分で何かを買ったり、夢のために使える。私にとっては自由であり、気楽。お金を稼ぐこと、働くことがとても楽しくて好きになりました。

しかし、この100万は一瞬でなくなりました。

大学の入学金や前期の授業料、教材費、スーツ代、岐阜は車移動が基本なため免許取得費用と車のお金…で呆気なく消えました。

100万という金額は、高校生の私には夢のような大きなものでした。100万を稼ぐ大変さから感じた重みと、一瞬でなくなる軽さ、同時に知りました。

奨学金を借りる選択肢は私にはなく、バイトしやすい授業カリキュラムになっている大学を選び、働きながら通学。

将来はお金をちゃんと稼いでいきたい。とも思いました。

このなんとなく感じたことが、人生の選択を広げていきます。

大学生:講義で人生激変

大学1年のある日、虐待の講義がありました。

授業の最初にこんな注意がありました。

「今日は虐待の話です。毎年この講義をすると、数名、顔色の悪くなる人が必ずいます。虐待を受けている人には苦しい話です。苦しくなったりしたら我慢せずそっと廊下に出て構いません。わたしは前から皆さんの顔がよく見えるので、すぐにわかります。また、学校在籍のカウンセラーもいるので、活用してください。」

私は「へ〜」と他人事でしたが、めちゃくちゃ苦しくなってしまうんです。顔をあげられない。呼吸が苦しい。

わたし、虐待されてたってこと?
今までこんなに頑張ってくる必要あったのかな…
何を必死に頑張ってたんだろう

心の中で、何かが崩れました。

違和感は色々感じていたけれど、その違和感に「虐待」という名前がつきました。

私はこれまで「頑張らなきゃいけない」「どうせ何も変えられない」諦めて決め付けていました。

「逃げてもいいんだ」

そうわかった途端、心が軽くなりました。

その講義後、「わたし大学やめる」と友達に告げ、担任的な人とアポをとって話をしに行きます。行動力(笑)

これまで弟に飛び火しないようにって1人で家のこと頑張ってきたけど、「自分の人生を生きていいんだ」って思えたんです。

19歳冒険の始まり:家出

冒険の第一歩が家出だったんです(笑)

幸いお金はちゃんと貯めていたので、アパートを契約。家具家電を揃え、貯金は底を尽きましたが、自分で言うのもアレですが上手いこと家出しました(笑)

子どもらしく生きてこれなかった、甘えられなかった。これまで頑張ってきたと認められたことで、まだ19歳なんだから自由に生きよう!と決めたんです。

大学は親の許可はないと辞められなかったので、除籍しました。通った記録も残らないので、綺麗な高卒です。

でも私はこれまでの努力が無駄になったとは思いませんでした。家事もお金の管理も、あの家で育ったから身についた。頑張ってきたから、こうやって選択ができたと思ったから。

母を憎んだりしていません。だって私の人生の大切な時間だから。

「生きててよかった」と心から思いました。

最高とどん底:発達障害の彼との暮らし

家出した私は、初めて家が落ち着く場所になりました。

当時付き合っていた夫と、半同棲。めちゃくちゃ楽しかったです。

ところが彼が私生活で辛いことがあり、精神的に落ちてしまいました。ここからどん底に落ちていきます。

彼は自傷や他害もあり、叫び、泣き、「死にたい」と言うばかりの毎日。

人生で初めて、わたしも心を病んでしまいました。自分が自分じゃないみたいに、どこかで俯瞰してるんです。物凄いキレ方をして、胸ぐらを掴んで(怖っ笑)異常でした。

なんとかしなきゃ。だけど自分にも余裕がありません。

約1年間、本当にしんどかった。

彼は精神科を受診したいと相談してくれました。

想像通りの薬が処方され、長い待ち時間でも診察は数分。何かが解決されることはありませんでした。

  • 薬では根本的に変えられない
  • 根性で無理しても、ストレスが溜まり不調が増える一方

私も彼も本当に本気で変わりたいなら違う選択をしなければ。漠然とそう感じていました。

自分ビジネスを知る

体調が悪くなったことでバイトに行けなくなりました。でもお金を稼がないと生活できません。

家でできることを探し、ひとつの仕事を見つけます。家で短時間で好きな時間に稼働。1日で3万円稼ぐときもありました。バイトのときの時給が15分くらいで稼げました。

就職やバイトといったサラリーマンという選択しか知らなかった私は、自分ビジネスを知ったのです。

家庭教師もしていたので、かなり短時間で30万くらいは稼いでいました。体調の悪い自分にとっては最高でした。

自分たちが知らない選択肢があるんだ!希望が生まれた経験です。

20歳:選択肢を持ったことで前進

  • 薬ではない選択って何があるんだろう
  • どうやって良くなったら良いんだろう

仕事はネット上で見つけられたけど、不調や人生については検索しても答えは見つかりません。

手段がなく、何も知らないんです。植物療法や自然療法存在さえ知りませんでした。

そんなときにドテラを教えてもらったんです。

  • エッセンシャルオイルの品質の高さ(製品力)
  • 生活習慣でしか変わらないからそこが軸となる考え方
  • 誰も損をしない仕組み

これは面白いぞ。

「生活習慣でしか良くならない」というのは意外と盲点じゃないでしょうか。だってそんなこと誰も教えてくれないから。

薬や何か優れた製品が治すのではなく、自分の身体は自分の身体の機能が治すものなんだと。

まったく余裕がなくて不調の極みなのに、常に矢印が周りに向いていて「わたしがやってあげなきゃ」「頑張らなきゃ」と思っていたんです。でも常に満たされていませんでした。

なんとかしたいな
閉経までずっとこんなわたしでいるの?
絶対嫌だな
妊娠したいし

ちゃんと話を聞いてすごく納得したんです。使ってみて違ったら辞めたらいいし、まずはちゃんと使ってみようと思いました。

わたしのために香りを選ぶ

たったそれだけのことなのに、矢印が自分に向くようになったんです。
心が満たされてふわっと楽になっていきました。

21歳すべてを手放し次のステップへ

ドテラを取り入れて1年経った頃には、私たちは不調から解放され、経済的にも安定し、心も落ち着き、穏やかな暮らしに変わりました。

そしてある日、彼が言いました。

「生きててよかった。もう死にたいなんて思わないよ」

すべてのことが整った私たちは、妊娠というステージに進みます。

生理痛が消え生理周期も安定。お互いに身体も心も元気だったおかげで、すんなり妊娠しました。2人で泣いて喜びました。

22歳〜:ドテラを仕事にしたい!

息子を出産し母になりました。

コロナ真っ只中。世の中全体がピリピリしていました。

そんな中、妊娠出産でストップしていた働くことを望み始めます。やっぱり働くことが楽しく、好きだから。

子どもがいてもできること。FXなんかも2年間猛勉強。しかし余剰資金がないと厳しい。

何かできること…
子どもがいてもできる何か…
資金がなくてもできること…

あれ?ドテラできるじゃん?

そう気づいた私は、早速始めちゃいました。

インスタは苦手だし、友達も少ないし、そもそも健康に興味のある20代前半は少ないし…コロナの中、イベントは開催できない。じゃあ発信するしかない!そこでYouTubeを始めました。

私が過去に感じた「生きていてよかった」
彼が言ってくれた「生きててよかった」

これが私の伝える理由、発信を継続するエネルギーとなりました。

孤独に悩んでいた辛かった時期。手を差し伸ばしてくれる人はいても、病気を治してくれたり、お金を恵んでくれる人なんて現れません。自分たちでなんとかするしかない。

だけどそこで、やり方や知識、術を知ったから、私たちは前進しました。

過去の私たちのように苦しんでいる人もまた、私たちのように知らないから教えたい。助けになりたい。

選択肢があることで、選ぶことができる。時間ができる。余裕ができる。

ドテラと本質的な健康…これらを知らなければ、いまだにボロボロな毎日を送っていたはず。息子も生まれていなかったかもしれない。

私が人生で初めて、ずっと継続できたのがドテラを伝えることでした。

親子関係の変化

家出後、もう何も気にせず生きたいと思っていました。

同じ屋根の下に母はいないし、怒鳴られたり手を上げられることもない。ラインは相変わらず何百通と届くものの、通知オフにすればいい。

でもこれは、ただの逃げでした…
逃げても現実は変わっていないんです。

辛い暴言の連続も、最大限の否定も、私への執着も。気にしないと思っていても気にして傷つき泣いてしまう自分。何も変わっていませんでした。

「嫌」そんな二文字も言えない
一緒にいると緊張する

でもこのままではずっと怯えることになるから、何かを変えようと思いました。私は母にアロマタッチを不定期ですが始めました。

そのときだけは、母も何も言わず黙って手を当てさせてくれます。

小さい身体で色々背負ってきたんだろうな…そんな感謝も生まれました。

「私は幸せだ」歯を食いしばって生きてきたけれど、本当はさびしかったし辛かった。助けてと素直に言えず頼りかたも分からず、いつも1人で静かに泣いていた。手を当てるたび、そんな自分の気持ちも浄化されていきました。

すると不思議なことに、境界線をつくることが段々とできるようになりました。

つい最近ですが「嫌」と断ることもできました。

過去は変わらないし、母に言われた言葉も消えません。忘れたくても次々と思い出せます。

それでも、私が強くたくましく生きてこられたのは、そんな子ども時代があったからです。

だからこそ、幸せな子どもを増やしたい。辛さが分かるから。

そして同じように母も辛く孤独だったのだと思います。

だからこそ、幸せなママを増やしたい。

24歳〜各地にご縁が繋がる

SNS発信について学んだことはなく、まず行動!という感じで走ってきたので、それなりに遠回りしてきました。

しかし結果はついてきました。関東から沖縄までひとりひとりへご縁が繋がりました。

知識はいくらでも入るのですが、人生経験がまだまだ未熟な私には、学びや気づきがたくさんです。失敗だって嫌だし、反省することも多々あります。

それでもメンバーさんがいるから、応援してくれる家族がいるから、誰のせいにもせず、前を向いて進んでいけます。

ドテラを知らない方にお伝えするのが大好き。

でも同じくらい大好きなのは、メンバーさんと講座で話したり、電話したり、出張講座したり…そんな時間もかけがえのないものです。

交通費や宿泊費、時間をかけて足を運んで手に入れた学びや情報も、惜しみなくシェアしています。分かりやすいように資料を苦労してつくります。

それでも喜んでもらえたら、嬉しいのです。良くなってほしい一心です。

ドテラを始めた20歳のときには想像もできないような毎日。超楽しいです♡

自分の辛かった過去が、強みになったり、誰かの役に立ったり…それでメンバーさんやご家族が少しずつ変化していくことが本当に嬉しいです。

メンバーさんが学びやすい環境や、どうすれば楽しめるかを考えています。まだまだ未熟で模索中ですが、最近始めたコース講座は大変好評です♡

家庭教師していたこともあって教えることが大好きです。

毎日誰かしらと話しているくらい、たくさん講座やレクチャーしています。

楽しいから、できちゃうんです♡

  • 本当の健康
  • 本当の幸せ
  • 次世代の未来

を想い、日々伝えています。

そして、自分のためにやっても1ミリもうまくいきません。

人間成長ビジネスと言われるのが痛いほどわかる、そんなドテラビジネスです。それくらい、GIVEのお仕事です。

でもなんか、伝えれば伝えるほどやらない理由が見つからなくて、突き動かされるように行動しています♡

ひとりひとりに丁寧にお伝えしています。時間もかけます。
礼儀のない方や、情報という資産を当たり前に受け取ろうとするような方はお断りいたします。与え合い助け合う、質の良いコミュニティにしたいです。

25年の人生が宝もの

視野を広げるために、10代の辛い時期があったのかなと感じています。

我が子を含め、次世代を大事に想う気持ちは、子ども時代の経験がなければ生まれなかったと思います。

いつも感謝の気持ちを持っていたことが、周囲に恵まれた理由でもあるなと思います。ひねくれずに生きてこられて、本当に支えてくださった皆さんに感謝しています。

人間は1人では絶対に生きていけないと学びました。

発達障害の彼との出会いは、様々な常識に疑問を持つきっかけになりました。他の道を探す力が備わったのは、彼のおかげです。

YouTubeで発信したのも、インスタでユーザーが溢れかえっているなか穴場でした。YouTube内の検索でドテラと入力すると雪音と出てくるくらいに。

絶対に嫌だ。良くしたい。その気持ちが、母になる変化を生みました。穏やかな暮らしができている今は、自分たちの選択と決断と実践でした。

常に学び成長(変化)していく楽しさを知っているから、停滞が嫌いです。

だから過去のことをズルズルとひきずっていません。こんなに楽しくて充実した毎日に変わったんだもん。だからこそ頑張ってこられたから。

「勇気をもらいました」
「感動しました」

で終わらず、最高な生き方ができる人を増やしたい。そのステップを伝える仕事をしています。

私には夢があります。

  • 発達障害の人たちと一緒に働ける施設をつくること
  • 消えかけているおばあちゃんの知恵のようなものを伝承するきっかけに、食育(畑)をすること
  • 家族の健康と幸せを担うママたちの余裕をつくり笑顔にすること

私は日本という国が大好きです。でも蓋を開ければめちゃくちゃなことになっています。だからこそ、貢献していきます。

何よりも愛する我が子を想う気持ちは、みんな強く持っているはず。

生きづらい社会を生き抜く力を養いましょう。

我が子が健康でも、人を傷つける子どもも大人もたくさんいます。そんなニュースばかりです。

「かわいそうに…」何もせず、呑気な感想言ってる場合じゃない。本当に明日は我が身。

自分のことも、家族や友達、周りの人も、大切に優しくできる人が増えてほしいと心から願うから、私は伝え続けます。